大学に入ると、ソフトウェア研究会と言うサークルに入った。
私の大学にはコンピュータ系のサークルが二つあり、固くない方を選んだつもりだったのだが、間違っていた。結果としては良かったが。
同学年の女の子はすべてもう一つのサークルに入り、ソフトウェア研究会は男しかいなかった。
学校の授業ではマックに触った。プログラムはまだなし。お絵描きソフトとか、ワープロ程度。
サークルは週に一度勉強会があり、プログラムを教えて貰った。
夏になると、サークルの合宿があった。福島の温泉で一週間、ほぼ毎日プログラミング。最終日だけ遊び。夜は飲み会。
この合宿が、中学校のVTR部が潰れた時に続いて2度目の人生のターニングポイントだった。
それまで、独学でCを学ぼうとしてもなかなか取っ掛かりがなくうまくいってなかった。
しかし、合宿で教科書にK&Rを指定され、4年生の先輩からポインタについて学ぶことができた。
目の前から急に霧が晴れる感じ。
普段は4年生は顔を出さないし、合宿で教えることもかなり異例だったんだと思う。しかし、私達の代はちょっと変わった奴が多かったので...。
合宿で流行ったのが、タイピング練習ソフト。みんな暇を見つけてはそればっかりやっていた。
それまでの私は我流のタイピングだったが、このソフトのおかげでちゃんとホームポジションに手を置くブラインドタッチをマスターした。画面だけを見てコードが書けると言うのは、想像以上に大切なことだ。
一年生はメキメキ腕を上げ、みんな先輩よりも早くなった。
この合宿でもう一つの大きな出会いがあった。4年生の先輩の一人が、シルバーのユーノス・ロードスターに乗って来たのだ。
それまで、私に取って車とは、親のワンボックスだけだった。車とは移動、輸送の道具だった。
ロードスターは、そんな認識を根底から覆す車だ。でもそれはまた別のお話。

合宿から帰ると秋の学園祭に向けて準備が始まった。
サークルでは、会員が作ったソフトの展示と販売を行う。
当時タケルと言う名前のソフトの自動販売機があったのだが、それをパクった「たけお」と言う箱があった。中に人が入って売り子をするだけのものだけど、なんだかとても良いアイディアに思えた。
私が所属した1年生だけで構成されたチームは、X68000で3Dテトリスを作ることにした。
メインはCで、ワイヤーフレームの描画エンジンはアセンブラだった。
プログラムが3人、絵を書く人、音楽を作る人、シナリオを書く人、部屋を提供する人。
毎日学校が終わると開発部屋に集まった。
できあがったものは私達には大夫満足の行くものだった。これが、最初のチームでの開発経験になった。
500円の値を付けたけど、もちろん内輪にしか売れなかった。

その頃、スティーブ・ジョブズがNeXTを発表した。当時のワークステーションの値段からは信じられないほどの安さで、MACHとか先進的でとても魅力的だった。(当時の私にはほとんど意味がわからなかったんだけど、とにかくエキサイトしたんだ)

2年になると、授業でプログラムが始まった。FORTRAN。
一年の校舎にあったマックではなく、富士通のメインフレームだった。
メインフレームのOSは、それまでの知識ではまったく扱えなかった。MS-DOSとは言わなくても階層構造のファイルシステムやコマンドインタプリタなんてパソコンでも実現できていたのに、メインフレームは違った。
言語自体は難しくなかったので、授業はいつも暇であまり面白くなかった。


3年になると、研究室に所属して、週に一度ゼミと言う授業があった。
私がいた数学系の学科の中で、比較的自由にコンピュータを触らせてくれると言う噂の研究室を選んだ。
その研究室には初代NeXTとSONYのNEWSがあった。(既にNeXTは2代目が出ていた)
当時メジャーだったのはPC-9801とWindows3.1だったけど、私はUNIXにのめり込んだ。
68020とか68030のCPUに、メモリは4Mとか8Mだったけど、Xが動いた。
研究室に顔を出すのは、週に一度のゼミの時間だけで良かったんだけど、休み時間も放課後も、ずっと研究室でワークステーションに触った。
いろいろなフリーソフトをコンパイルし、メールやネットニュースを見た。
NEWSもNeXTも、あまりメジャーとは言えなかったから、フリーソフトをコンパイルするのは結構大変だった。
今みたいにLinuxでconfigure&make一発とはいかなかった。
コンパイルエラーを追いかけ、ソースを修正した。
この経験が、のちに大夫役立っていると思う。

この頃、草の根BBSと言うのが流行っていたので、私も研究室で余っていた1200bpsのモデムを貰ってちょっとやった。
テレホーダイとか入ってなかったので、ちょっとだけ。
Nifty-SERVにも入った。

そして、MOSAICが登場した。
当時はgoogleもyahooもなくて、gooの前身かもしれないNTTのページ(名前を忘れてしまった。日本のWWWページとかそんなの)だけが情報に辿り着く術だった。

4年になると、学科の各研究室にSUNが配置された。ネットワークの管理をまかされたので、学科のサブドメインでメールのやりとりができるようにした。DNSが苦手で、設定を教えてくれない上位ドメインの管理者と喧嘩したりした。
計算機センターに侵入しようとしてアカウント停止されたりもした。
4年の授業で、COBOLがあったが、これだけは習得できなかった。

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